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大会にて [閑話休題]

 


わたしは、大会が得意ではない。


勝つこと、を目的とできない自分の麻雀


やはり大会には向いていないのだ、と思う。


勝ちたい、と思う気持ちがどうにも沸いてこない。


勝ちたい、と思って一生懸命に打っているひとたちに


「勝つって何に?」


「勝って何の意味があるの?」


と、本気で思ってしまっているのだ。


自分には、勝つ、その事の先に未来が見えない。


もちろん、勝ちたくって仕方がなかった若い時代もあった。


けれど、勝つことの価値が、よくわからない、ということが


本音である以上、勝つことを目的には打てない。


それよりも、慈しみたい。


大切に大切に、麻雀を噛み締めたいのだ。


麻雀は、自己実現の場。


自分が満足できないことをなしに、前には進めない。


 


・・・・・・・・・・・・・・


とある、大会?に誘われた。


若者が中心のその場所に、なんとも自分は似つかわしくない。


彼らのための自由な時間に、自分が参加することで


余計な気を使わせてしまうのではないか?


ということが、本当の気持ち。


けれど、誘ってもらえたことについては


とても嬉しかったので


メンツが足りないときの補充要因として、


お邪魔にならないように、その場所に足を運ぶことにした。


自分は、みなが楽しそうにしている様子を


ただ眺めていることが出来れば、それでよい。


そういう気持ちでいたのだが、


参加人数がジャスト16人。


図らずも、参戦を余儀なくされた。


大会なんて、何年ぶりだろう?


勝ちたい、とは思わない。


ただ、自分の麻雀を精一杯打つだけだ。


どんな結果であっても、


それを自分の歩んだ足跡として


誇れるように。


ひろりん師匠がいつも仰ってた


「これが、最後の麻雀と思って打ちなさい。」


その言葉を反芻する。


 


卓上の牌のなかに、妙に赤く光る牌が見える。


あ、そうだ・・・


赤有りだ。


赤有り麻雀。


リアルで打つ、赤有り麻雀に


しっかりアジャストできるだろうか?


という大きな不安を抱えながら対局が始まる。


 


 


 


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宇宙海賊 [閑話休題]

 


私は宇宙海賊なので、自由の旗の下に入卓する。


打ちたいときに打つ。それが、おれのポリシーだ。


そんなアウトローな対局のある局面。


親番 おれ、点棒はたくさん。


 四五六七八②②234578 ドラ7ソウ。


このシャンテン。


下家がリーチ。


6ソウ切りリーチ。


「やくまん、やくまん。」


とそらみみがする。


むう、下家の捨て牌から察するに、役満があるとすれば四暗刻くらい。


下家は⑤をツモ切る。


「やくまん、やくまん。」


また、そらみみがする。


⑤?もうこれはスーさんしかない。


私は、宇宙海賊なので、そらみみもすべて活用して戦う。


さて、まず、6ソウ。


ドラ表示として、6ソウたんはお仕事をしている。


6ソウを持って四暗刻も見れた、ということはソーズの形が


667 566 この2つ。


まあ、後者である可能性のほうが高い。


あと、66788と666778とかもあるにはある。


要するに、この6ソウ切りリーチの地点で、私の愛する6ソウはあと一枚しかない。


ドラ表、1枚、リーチ者の河に一枚、捨て牌に一枚。


あ、私の手牌はこれね↓


四五六七八②②34578 ドラ7ソウ。


上家から、三ワンが出たけれど、これをチーしても和了の目は薄い。


チーしておいて、②をポンして、7ソウ単騎ということも考えたけれど、


リーチ者のソーズが、666788


からの6ソウ切りかもしれないので、7ソウ単騎もいただけない。


とにかく6ソウは出ない、というか守備よく残っていてもたった1枚。


ドラ表示牌の6ソウを期待することは愚かだ。


三六九をツモッて9ソウをとる、これしかあるまい。


で、三をチーせずに、我慢。そしたら、6ソウが飛び出てきた。


けれど、100回同じ局面に遭遇したといて、101回、この三をチーして78のターツ


ペン6ソウのカタ和了のテンパイは組まない。


こういう和了を逃しても、全く気にしない。


ひろりん師匠や、Y氏がいうように、「そのまま受け止めること」も麻雀だ。


けれど、考えて検証だけはしなければならない。


考えていることに価値がある。


まあ、2900点を拾う局面ではないけれど、そらみみが聞こえなかったならどうしただろうか?


と考えてみる。


6ソウ手だしのリーチで、直前まで、667の形はリスクが高いので、


テンパイまでその形を保持しているとするならば、666788の可能性が高い。


もしくは、67と持っているところに、7を引いて、ドラトイツになっている可能性もある。


どのみち、形式テンパイ止まりだっただろう。


78のターツが配牌からピクリとも動かないのだから、戦う局ではないとうことだろう。


そういう、点棒拾う必要が全くない状況だったから。


さて、ここで、オカルトな意見を。


とにかく、9ソウにアヤがあった。


99南南 ①①①  九九九 ⑨⑨⑨


この69ソウ待ち。


そして、他家の和了も69ソウ。


けれど、そういう感覚は言葉では説明できない感性の問題。


69ソウは、自分にとって和了に遠いからといって、


ドラ受けのターツを払うなんてまねをしたとすれば、それは麻雀ではない。


69ソウが和了できないと感じていることと、69ソウが和了できないという事実を繋げてひも解く論理がない。


たとえば四五六七八②②234578 


ここに三ワンをツモり、一をツモる。


一三四五六七八②②34578


こうなり、さらに、6ソウがなく、(タンピンが望めず)マンズが取れそう、という状況があって初めて


論理的思考といえる。78切りのメリットが確定していて、マンズ受けのメリットが場況と符合している。


さらに、おまけ的な理由が「69ソウ和了できない」というアヤである。


時にごくまれに、あらゆる論理的な比較優位な打牌を否定するくらいの


絶対的な感覚に襲われることが現在でもある。


ほぼ絶対に近い言葉では説明できない不思議な感覚。


けれど、いくら私が自由に打つ宇宙海賊でも、その感覚にすべてをゆだねることは、できない。


やはり、感性を語るのは、おこがましい、と思うのだ。


 


 ドラ7ソウ。


ちなみに、この日は。


牌を12枚で組んでみたり、


ポロリとこぼしたり、


コーヒーを続けて2杯もかましたり、


とんでもないアウトローぶりだった。



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牌効率 [麻雀小説]

 


牌効率。


最近よくこの言葉を耳にしていて、なおかつ


なんとなく、よくわかっていないくせに


よくわかっているふりをして、会話をかわしていた。


牌効率って、その局面(場の状況)を鑑みた命題への効率。


多分、こんな感じでいいんだよね?


 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


グーグル博士に相談してみよう。


牌効率とは、


麻雀において、


聴牌に至る確率・早さのことを言う。


・・・・・・・・・・・・ 



え?


そうなの?


麻雀って、聴牌を競うゲームじゃないよ?


知らなかった・・・。


今まで、勘違いしていた。


まさか、牌効率が聴牌至上主義に起因しているとは・・・。


でも、確かに、状況抜きでの最善手というのは


客観的に説得力があるから、


これはこれでいいのかも。


シャンテンに戻したり、両面ターツを破壊する打牌は


牌効率がなってねえな、おい。


となるわけですな。


注意しようっと。


20170507220017.jpg


 


 


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 [閑話休題]

麻雀は武道的な要素を持っている、と思う。


麻雀は、道。


果てしない道を、ただただ歩をすすめる。


そして、いつしか、


それこそが、人生だったのだ、と思う日が来るのかもしれない。


::::::::::::



頑張って、頑張って、


それでも、報われないときに、


それでも報われない、と、


そういう挫折と直面をしたときに、その人の真価が問われる。


まだ、努力が足りない、と思うか、


努力が報われない世界を呪うか。


見返りが欲しくて重ねる努力では


きっとたどり着けない世界もあるだろう、と思うのだ。


そもそも、努力が報われている様子なんて


とんと見かけたことはない。


ようするに世の中はそういうもので、


報われるかどうか?ということ


努力を重ねる、ということは、独立した命題ではないだろうか?


と、私は思う。


報われようが、報われまいが、


好きだから頑張る、これでよい、と思う。


報われなくて、あきらめるなら


所詮、その程度の想いなのだろうと。


結果が欲しくて重ねる努力よりも、


好きで仕方なくって、結果努力をしていた、


後者のほうが、その道は幸福だ、と。


勝ちたい、から重ねた努力は、


勝てるようになれば、どうなってしまうのか?


尊敬されたくて、重ねた努力は


尊敬されたからといって、何か特別な意味を持つのだろうか?


道と、いうものは、


その到達点に価値があるわけではない。


その過程をどのように積み重ねたか?に価値がある。


旅と同じだ。


楽しめるひとは、どんなトキだって楽しんでいる。


楽しもうとしなくても、楽しんでいる、のだ。


もし、道を見失っているのであれば、


心を静かに、もう一度、


自分が麻雀について、どう思っているのか?


しっかりと見つめなおしてみることも、


一つの方法かも知れない。


道を見失って迷い、


ふただび、その道を見つけ出したときに、


その道程はゆるぎないものへとかわってゆく。

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ツキとか、流れとか。 [閑話休題]



最近、つかさ会で、ツキ、とか、流れ、について考える機会が増えてきた。


また、こういうことを話題にすると中途半端なエセ哲学チックな記事になるから、


簡単にまとめると、


「ツキとか、流れ、は、ある、と思う人には、ある。


ない、と思う人には、ない。」


ただ、それだけのことだ、と思うのだ。


ただ、ひとついえることは、


ツキや流れ、という形而上の概念と、


麻雀の形而下の事象は、全く別の存在。


場を見て、人を見て、連綿と打牌を紡ぐこと、そのことと、


その過去や未来を、ツキという言葉によって推し量ることは、


繋がらない、と、私は思っている。


牌の当たり前の理屈は、とても大事で、普遍的なもの。


ツキや流れの概念は、本人の感性によるもので、


刹那的で、言語化できず共有困難なものだ。


このあたりのことを、自分の経験も併せて


このあと、ぼんやりと記事にしてみようと思う。

:::::::::::::


ただ、麻雀が運やツキだから、と。


そう思うからと、目の前の対局を


おろそかにするようなまねだけは、絶対によろしくない、と思う。


運とかツキとか、そうゆうものに、服従してはいけない。


ツイテナイ。


よし、ならば、この局面を楽しもう!


これくらいの気概が欲しいものだ。


私が一番嫌いな言葉。


「どうせ・・・」


「やっぱり・・」


ついていないから、うまくいかない、と


現実から逃げている。


牌も未来も目の前にあるのに、その可能性から


目を背けている。


ついていようが、ついていまいが、


大切な大切な自分の麻雀だ、ということ。


大切な自分と牌との、同卓者との邂逅である、ということ。


牌はそこにあって、いつも自分の心のありようを映し出している。


大切なものは、いつも目の前にある。


つかさ会で、自分の感じているツキを、なんとか伝えられないか、と


本当に必死でいろいろ試行してみた。


簡単に伝えられると思っていた。


しかも、帰り道歩けなくなるくらい疲労困憊してしまった。


考えるまでもなく、展開がそのままイメージされる。


なんとなく、そう思う。


自然に「ああ、これはいける。」とか


「ああ。これはだめだ。とか、感じる。


「ここで、ふりこむ。」とか、


そういうのが本当に感じられてしまう世界。


ツキに任せて感じるままに打つことは、とても心地よいのだけれど


それを他家に説明するとなると、これは不可能だ、ということがよくわかった。


ツキを理由に牌を組む、という行為ややはりどこまでも


自分本位でどこまでも博打仕立てなのだな、ということも痛感した。


麻雀はどこまでも、大変だ。

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麻雀 [閑話休題]


こんな状態でいいんですか?


時間の無駄ですよ?


そういう苦言をいただく。


その言葉はとてもありがたいのだが、


私は、同卓者への迷惑行為以外は、


余計な口出しをしないように心がけている。


みな、それぞれ「なにか」を求めて集まってくださっているわけだから、


それを、私が、私の見解で、蹂躙するわけにはいかない。


けれど、麻雀に対する温度なんてひと、ぞれぞれ。


私自身は、もう、私自身の偏った麻雀を


誰かと麻雀を共有できる、ことは


温度差がありすぎるし、その捉え方も異なるから、「無理」


と思っているから、つかさ会には、そういうこ私的なことは全く望んでいない。


麻雀を勉強したい、という思いは人それぞれだから。


200人ゆうにを超える人の麻雀を見させていただいて、


その各々の熱い想いの発露をうれしく感じながら様々なことを考える。


例えば、これが私ではなくて


私の師匠であれば、きっともっとしっかりと意義のある


結果を短時間で残すことができていた、のでは、と思わない日はないけれど。


けれど、こういうことは自分ひとりでやってきたことではなくて、


参加者の協力があって、ここまでこれたこと。


そういう意味では、自分のやってきたこと


みなと積み重ねてきたことに、意味があり


(自分が身勝手に望んでいたものとはならかったのだけれども)


会の存在には大きな価値がある。


だから、麻雀を打つ場所としては、


つかさ会はそんなに悪くない、とは思っている。


おのおのの麻雀を持ち寄って、それを探求する環境は整っている。


ここには、麻雀を勘違いしている人間はひとりもいない。



::::::::::::::::::::::::

あらゆるつまらない感情を封じ込めて


他家の麻雀をぼんやり眺めている。


誰がどういう気持ちで麻雀に接しているか、


手に取るようにわかる。


参加者の麻雀は、目を開けているときには


実は参加者以上によく見ている自負がある。


数限りない矛盾を感じながら、


質問がないかぎり諦観を心掛ける。


努力がそのまま結果にはつながらない、


それが麻雀の残酷なところなのだけれど、


それを重ねていればその先に、未来は約束されている。


感じることは山ほどあるけれど、


それは、全て自分の、私の中にあればよくて、


そういう自分との差異を大きく認めてなお、


それはそれで私の力になるから無駄ではない。


卓入りしているときには、


自分でも考えられないくらい、たくさんのことをやっている。


もちろんほとんど気が付きてもらえないのだれど


気づいてもらえた時は本当にうれしい。


::::::::::::::::::::::::::::::


それに私は、参加者の「麻雀への想い」を信じている。


私が余計なことを言わなくても、


きっといつかたどり着く。


そのひとなりの到達点へ。


それは、何十年先でも構わない、と思うのだ。


むしろ、辿り着けなかったとしても、


それにもその道程にも意味がある、とまで思うのだ。


麻雀は麻雀道。


道なのだから、その道程にだって


いや、その道程にこそ価値がある。


麻雀で人を傷つけたくはない。


それが、本物になるための痛みであっても、


それを相手が望んでいるかどうかは、


それが本当かどうかは、何が本当か?は


測りがたいものなのだから。




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牌の都合、あなたの都合 [閑話休題]





誰より強いとか、そんな和了は恥ずかしいとか、


鉄リーチとか、鉄鳴きとか、なんとかかんとか。


そんなこと、どうでもいい。


リーチのみ?


役牌のみ?


ずいぶんと失礼な物言いだ、と思う。


ノーテン罰符?


ノーテンは、罰を受けなければいけないことなのか?


人の決めた事柄の多くはどれも等しく卑しく響く。


深呼吸をして、牌の声を聴いてみよう。


大切なことは、いつも自分の心の中にしかないのだから。


麻雀が達者なことに、何の価値もない。


麻雀を大切に、同卓者を大切に打つから、価値がある。


その結果、よい麻雀であればそれこそが到達点なのだ。


:::::::::::::::::::


つかさ会では、素点評価を採用している。


100点にだって価値がある。


その人のオーラス。


弁当を食べて、ねむねむモードの私に


Sさんが手招きをする。


「七ワンを何回も見逃しているけれど、


あれは、いいんですか?」


のぞくと


四四六八②③④⑥⑦⑧567


ドラが8


この三色ドラの一手代わりのテンパイ。


オーラスで着順が変わらないから、


七ワンを見逃した、という。


私は、その人の13枚の手牌がかわいそうでならなかった。


3色にはなれないんですよ。


だから、三色になるまえに和了牌が何枚も何枚も打たれる。


どうして、和了しないのか?


その理由は、すべてその人の自分勝手な都合に他ならないのではないか?。


ドラの8ソウを引いて着順の変わる和了をしたい。


さらに大きな失点をする可能性もあることや、


他家の思惟。


さらに、なぜこのテンパイがはいっているか?


について全く考えが及んでいない。


自分の都合のいいことばかり考えて


牌や同卓者のことが全く見えていない。


それでは、ダメなのだ。


安い手を和了しないことや、


着順の変わらない和了をしないことや、


手役を狙うことに酔っぱらってしまっては


麻雀は全く成長できない。


その先の思惟にたどり着くことができないからだ。


お金がかかっていれば、そういう麻雀もありだろう。


お金で責任が取れるのだから。


だけど、ノーレートでそれはよろしくない。


せっかくみなが時間を持ち寄って打つかけがえのない時間に


そんな、借り物の麻雀は、誰も幸せにならない。


もちろん、全ての終局である他家が頑張っているオーラスに


着順の変わらない1300点の和了はできなかったのだ、とも思う。


「オーラスに着順の変わらない和了をしやがって!」


とか、


「この人は、本当に出る幕じゃないのに!」


とか、聞こえない遠くで


思われちゃったなら、いやだから。


もちろん、その気持ちはわかる。


優しい気持ちの人だから、自分の和了で人を傷つけたくないし、


自分も傷つきたくない。


でもね、その結果、麻雀そのものにとても残酷なことをしている。


でも、目の前の1300点は


そんなにひどいテンパイなのか?そこを考えて欲しいのだ。


天文学的な数字で、その人のところに集まった


その13枚が、そのオーラスに和了に向かって組みあがってゆく。


その精一杯よりも、自分へのお咎めが嫌ならば


それは、本当に麻雀を勘違いしている。


人の都合は、牌の都合を超えることなんかできやしない。


人が自然を思い通りにできない、ということと同じ。


牌と寄り添い、牌の気持ちを考える。


牌の気持ちを考える同卓者の気持ちを考える。


勝てばいい麻雀なんて、そんな楽な麻雀を打ってはダメなのだ。


三色を見落としたことによって、


オーラスに三色になれない、なんとも空気の読めない手が来た。


なら、その手を信じて和了すれば、


次局は、必ず牌が力を貸してくれる。


私はそのひととは、そういう麻雀を共有したい。


まだ、そう思っている。



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まよいまいまい [閑話休題]


わたしは、牌の効率とか、そういうことは


もちろん当たり前にとても大切だ、と思うのだけれど、


それだけで、麻雀を理解できるなどとは、微塵も思っていない。


それは、当たり前のこと。


場況判断とか、高期待値の打牌などは、当たり前に努力するべきこと。


だけど、私はそれ以上に、それ以外のことにも、注意を払いたいと本気で思っている。


当り牌を掴まない、努力。


ここ一番で勝負手を入れる努力。


それらは、全て常日頃と繋がっている。


だって、ツカなくなってしまったなら、どうしようもない。


効率とかなんとか、言ってる場合じゃなくなる。


オカルトと言われようが、私は「そういうことも」とても大切に考える。


「やれば、できるかも知れない。


でも、やらないと、何も出来ない。」


ツキとか、流れとか、は存在します。


そういう要素を無視した麻雀もそれはそれで


その人の信じることだから、善い悪いの問題ではない。


「存在しない」というのであれば、形而上の事柄は


どれも「存在できなく」なってしまう。


とにかく、麻雀は、形而上、形而下、を問わず


あらゆる事柄を綯い交ぜにした事象から、


自分の感性で、道を切り開くもの。


もう、他人と共有したいとは思わなくなっているけれど


信じることの根底にあるものは、微塵も揺るがない。




::::::::::::::::::::



ぼんやり、そのひとの麻雀を眺める。


一打の理由がどうだ、とか、効率がどうだ、


そんなステージでのことではなく


その一打に想いがあるのであれば、


その発露を感じたい。


と、そのように願う。


ぼんやり眺めていると、やはりまよいまいまいだ。


決断できないでいるさまが、零れ落ちている。


迷う理由は、自分で決めなければいけない、と勘違いしているから。


道がわからなければ、深呼吸をして世界を見つめてみればいい。


ひとりではない、そのことに気づくはずだ。


同卓者がいて、そして牌がある。


迷うのであれば、場の状況や他家、牌の様相に尋ねればよいのだ。

:::::::::::::::::::


確か、こんな感じのシャンテンだったと記憶している。


マンズが強かったので、やはり先にマンズの形が決まった。


三四五五六七②③④⑤5688


ここから、⑤を切る。


ああ、三色がおろそかになっている・・・。


もちろん、三色の手組を成就させるには、


たくさんの条件をクリアする必要があるから、


ここでの②や⑤の切り間違いなど、形而下の理屈的には大きな問題ではない。


だけど、私は、そのようなちいさなことが、


おおきなしっぺ返しになって返ってくることがある、と


いうことをよく知っている。


本当に痛いくらいよく知っているのだ。


オカルトだ、といえばそうかも知れない。


だけど、私は、麻雀におけるの全ての出来事は繋がっている、と信じている。


ちいさな手抜きや迂闊さが、のちのち自分にかえってくること。


また、ちいさながんばりの積み重ねもまた、のちのち自分にかえってくる。


因果応報。


麻雀は真実への道である証、ともいえる事象。


大切なことは、ちいさなことを、おろそかにしないことだ。


余計なことを言うつもりはない。


つかさ会では、めいめいがめいめいの精一杯で


自分の麻雀に臨めばよい。


私は、質問をいただいたことにしか、答えることはしないし、


どんな麻雀を打っていただいても、まったく私の預かり知らぬ世界。


余計なお世話サマーは誰もしあわせになれない世界。


だけど・・


そのひとが、どういう想いでつかさ会に参加しているか、


そのことを考えると、やはりスルーは不誠実だ。


7年近く費やしたであろう時間と、積み重なったゲーム代は


もはやその人生の一部と言ってもよいほど、実は重い。


他の参加者であれば、次回のそのひとの気づきの為に、スルーでいい。


だけど、このひととはいつか、同じ景色が見たい、と思う。


「三色の見落としはだめです。」


思わず口を開く。


「ダメです。」


大事なことなので、2回重ねる。


みんな気づいていないんだ。


麻雀の本当の怖さを。


ここ一番で、手が入るには、牌の力が必要なんだ。


三色をおろそかにすると、


本当に三色が必要なときに、三色が入らなくなる。


それが、いつなのかわからないけれど。


でも、本当にそうなんだよ。


そう思いながら、卓を離れた。


そして、そのひとのその日最後の半荘の最終局。


麻雀は、われわれの気づきのために、その未来のために


ひとつの残酷な奇跡を用意していてくれた。






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充分形と最終形 [閑話休題]

麻雀には、その手牌や場の状況により、目指すことのできる最高形がある。


またそれとは別に、その場の状況に最適な充分形というものが存在すると私は思う。


私は最高形よりも充分形を意識する。


充分形を組むために最高形をイメージする。


充分形が組めたならば、欲は捨てて和了へ向かう。


6000点オールを和了した東ラスの親番。


ドラは二ワン 14000点持ちのトイメンから五ワン手出しのリーチが刺さる。


そうして一発ツモ。


⑥ピン 二二六七八①②③⑦⑧678ツモ⑥ 倍満の和了だ。


五ワン手出しのリーチなので 二二五六七①②③⑦⑧678 の形から五ワンと八ワンを振替えてのリーチ。


なるほど、三色を大切にしたよい麻雀だ。


だが、これが最高形かといえばそうではない。


二二六七八①②③⑦⑧678ツモ⑥ に①と④が振り替わった


二二六七八②③④⑦⑧678ツモ⑥ こいつが最高形だ。


運よく三色の⑥で和了できたからよい。


けれど、⑨が出てしまっては三色を意識したことが意味をなさない。


私は、この手は、この状況であれば、即リーチである。


二二五六七①②③⑦⑧678 これでよい。 マンガンでよい。


他家へのけん制など、場の状況を考慮すればマンガンテンパイでも恩の字だ。


テンパイを組むまでは、三色は見落とさないように注意する。


けれど、テンパイを入れてしまったならば話は別だ。


けれど、最速でなおかつ値段もあり、両面のテンパイ。


この利を生かさない理由はない。


他家にほんの1巡自由に打たせるだけでも、状況ががらっと変わる。


リーチをかけていれば、他家が打ち出すことのできない牌。


リーチを打たなかったことで、その牌を打たれて処理されてしまうことはもう失点と同じだ。


それくらい、麻雀における1巡というものは重いのだ。 この状況。


①点棒が14000点くらいある。(親の12000点に耐えることができる。


②自分以外がノーテン。


③ドラを自分が持っている=他家が持っていない。すなわち自分のリーチは脅威。


ダマで三色振り替わりを待つには、リーチの条件が揃っている。


まだ、南場がまるまる残っている。 オーラス、倍満ツモが条件の局面ではない。


ともあれ、 二二六七八①②③⑦⑧678ツモ⑥ と、倍満を和了した。


ということは、牌が三色になりたがっていたことになる。


一発で⑥ピンがいた、ということは、ともあれ正解だったということ。


この結果には素直の感謝するべきだ。


問題は、まだ、南場が残っているということ。


この和了を次局につなげていかなければならない。


もし、充分形と最高形を取り違っているとしたら、押し引きのバランスでエラーがでる。


和了と振込の次局は本当に大切だ。 牌を信じることは良い。


けれど、他家の状況を鑑みこともとても大切だと思う。


スタンドプレーでは、未来に繋がらない気がするのだ。


そうしてもう一つの事実は、同卓しているせんぱいと私がこの倍満に違和感を感じていること。


なんともいえない、場に符号していない感覚。 卓上の違和感を感じとり次局へつなげていきたいものだ。


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ゼンツマン [TSUKASA会]


ゼンツマン。


もっとも忌むべき存在。


どんな牌でも、全部つっぱってもよい、なんて状況


内容の価値を競う麻雀ではありえませんから。


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せっかくの休日を「つかさ会」参加につかってくださるみなさま。


その対局は、やはり責任重大だと思うのだ。


だから、ちょっと反省も踏まえて、とあるオーラスを記事にしたい。


::::::::::::::::::::


ミュールールでの対局。


積棒なし。一発裏無し、食い替え有り、リーチ後のアンカンなし。


時間切れ、最後の親番


23000点くらいの持ち点棒。


上家北家がラス目。


トップ目南家は、まず前にはでてこない、そんな状況。


ドラ⑦


8巡目


上家の捨て牌がタンピン系だったので


チャンタ軸で組む。


一二三①②③137899中


この13枚に⑧を引いてくる。


ピンズは激安。


ドラの⑦以外はほとんど他家の手の中では


使われていない感じ。


一二三①②③⑧137899中


中を切り


ドラが⑦なので、⑨を引けば、


一二三①②③⑧⑨13789


将来


一二三①②③⑧⑨11789


こういう変化、リーチツモで8000オールまで見える。


ピンズの安さとドラそばの⑧の力をおろそかにしてはいけない


変化の可能性に対応するべき、と思い


打中、としたなら、中がかぶった。


一二三①②③⑧137899


もちろん、ここに9ソウを引いても、⑧を引いてもリーチだが。


こういう後手を踏んだ時は危険だ。(そんなオカルトありえません)


そうしているうちに、ラス目上家から、リーチ。


おそらくは高得点だ。


上家は、このオーラス、いつもより


河をチラ見する頻度が多い。


気のせいではなく、チラ見している。


高得点が必要なラス目。


で、リーチ。


ということはリーチをかけたほうが


和了がしやすいテンパイ、ということになる。


何度も河を見て、逡巡する理由は、(そう思える)


ダマでも和了できるけれど、リーチをかけたほうが


和了しやすい、ということではないだろうか?


そういうテンパイは麻雀においてひとつしかない。


チートイの単騎待ちだ。


リーチ者の河はチートイに見えにくく、


それがそのまま、リーチ選択の理由になっているのではないか?


リーチをかけたなら、親番の私に少なからずとも制約をあたえることができる。


さらに、和了を求める私からの直撃は多いにのぞめるところ。


私は、このリーチを、チートイドラドラ


「リーチをかけたほうがでやすい待ち」と決めて


地獄待ちのチートイ牌以外をすべてたたき切る。


ドラの⑦? ありえない。


ドラの⑦は2枚持っているはずだ。


でも、待ちにはしないはず。


大丈夫。


ノータイムでたたききる。


二ワンツモで手が止まる。


二ワンは234、123、345、


の三色牌。


リーチ者の河には、三色の可能性が少しある。


けれど、ピンズターツが組まれているとは思えない。


それに、マンズ二ワンが和了牌となるなら、河を確認する理由に


説明がつかないし、決意のリーチにたどりつく理由としても不十分だ。


これも、切る。


無スジの牌をひたすら切り続ける。


流局。


どこの単騎待ちだろうか?


と、のぞきこんだなら、


ドラ⑦ヘッドの、カン③の234のタンヤオ三色だった。


たしかに、ピンズはやすいから、河に落ちそうだ。


リーチを打つことで、私からの直撃でも12000点になる。


③は、わたしはつかめば、たたき切る牌。


234の確定三色の形は想像がつかなかった。


②も④も私の目からは、3枚づつ見えている。


しかも、序盤に切り出されていて、ピンズは他家も


ほとんどツモ切りを重ねている。


ち、ちがうんです!


ゼンツマンじゃなんです!


と、心の中で、叫んでいた。


北家は、最初っから、ハネツモ浮上しかかんがえていなかった、


ということだ。


その捨て牌にあわせて、チャンタに組んだ、


そこまでは、私の選択は間違っていなかった。


8巡目で、ツモ倍の手組を残すことも


やりすぎだったのかな、とは思わない。


ただ上家の打牌に対する推察が不足していた、と反省するばかりである。











沙霧.jpg




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