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見落とさない?三色 [哲学する麻雀]

タンピンで、両面ならリーチ!


基本的にはこれで、おけい。


けれど、ダマでテンパイをわたることができるのであれば、


ちょっと立ち止まって考えてもらってもいいかもしれない。


三四六六六⑥⑦⑧345678


ドラが七ワン


普通に六を切ってのリーチでオケイなのだけれど、


三を切って


四六六六⑥⑦⑧345678


七をツモリ


六六六七⑥⑦⑧345678


こういうテンパイに組める可能性を残してみる


というのも、ありだと思う。


三四六六六⑥⑦⑧456789


テンパイのまま、和了出来ることが一番だけれども、


状況が許し、なおかつ得点が必要な状況であれば


こ9ソウを外してタンヤオやタンヤオピンフを待つのもよいかしれない。


さらに本当にどうしても、値段が必要なときは


思い切って三四を外してテンパイをぶっ壊して


ソーズのイッツーと三色のテンビンをかける、という選択肢も。


六六六七⑥⑦⑧3456789


ピンフ形の手組がアンコウを含んでいる場合には


そのアンコウに何か意味があるのではないか?と考える。


そうして、可能な限り無理をしないで、テンパイのまま


高得点に組み替える道筋をさがすのだ。


ただ麻雀は4人で打っている。


自分だけが、自分の手牌を育てることを


場の状況が許してくれているのか、そこもポイントだ。


ggggimages.jpg


             
             

 


このまま
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最後の麻雀は [哲学する麻雀]

連休中に麻雀を打つ。


大きく開いた雀荘の窓から


これでもか、というくらい


爽やかな五月の風が吹いてくる。


「ああ、心地よい。」


まさに天国。


心の底からしあわせを感じる。


誰かがふと、こぼした。


「こんないい天気なのに、


麻雀打ってるってもったいない。」


・・・


確かに・・・


そうかも・・


麻雀は、夜打つもの。


夜の帳に身を隠して打つもの。


よく、


「おいおい、わかいもんが、昼間っから麻雀かい?」


と、言われていたりしていた。


昼間から麻雀を打つこと、は、


昼間からお酒を飲んだり、とか、と同じ


ニュアンスで扱われていた気がするのだ。


学生時代は、講義が終わればとにかく


雀荘に集っていたから、よくわかんない。


夏休みは、昼はお外で遊んで、


深夜1時くらいになってから、


ごそこそ集まり、朝まで打つ、というパターン。


::::::::::::::::::


確かに、昼間っから・・・ではあるのだけれど


こんな気持ちのよい風に吹かれて


麻雀を打てる、なんて最高だ。と、私は思うのだ。


こんなによい天気なのに、


麻雀を打てるなんて最高だ、と。


ふと、麻雀を打ちながら考えていた。、


人生最後の対局は、こういう涼風の中がよい。


最後の麻雀を私は、よくぼんやり考える。


まあ、妄想のたぐいだけれど。


:::::::::::::::::::::


草原の大きな家に雀卓を準備して仲間を招く。


季節はそう、今頃、皐月がよい。


順番に卓に入り、


悔いのない対局を終えた人間から抜ける。


私たちは、まるで草原のようにもみえる卓上を


人生のほどんどを捧げた麻雀牌で彩る。


自分との過去の対局者との麻雀を思い出しながら、


一打一打を噛み締める。


そうして、そんな風に


この上なく満足のゆく


楽しい時間を過ごしたあと、


私は卓を抜け、脇のゆり椅子に腰かけて、


楽しそうに打っている仲間たちの喧騒のなか、目を閉じる。


そういう風にして、終わりたい。


連休中の麻雀は、そんなことを思わせる


最高のロケーションだった。


 


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賭け麻雀とじゃんけん勝負 [哲学する麻雀]

「じゃんけん勝負しようぜ!」


「いいぜ!何を賭ける?」


こんな感じで、ジュースくらいなら賭けたりするかもしれない。


けれども、


このじゃんけん勝負に賭かっているものが、


例えば、10,000円とかかかっていたならどうだろうか?


これは、痺れる。


じゃんけんなんてものに10,000円も賭けるなんて、どうかしている。


例えばグーを出しただけで、もう10,000円失うなんで・・・


と、悩みが生まれる。


グーを出すか、チョキを出すか、パーとかも出しちゃうかも・・。


なんて考え出すと、もう泥沼だ。


ここが、大きな誤りの入口だ、と私は思うのだ。


じゃんけん、というもののゲーム性と、


お金が賭かっている、ということは全く別の問題。


お金が賭かっていようが、賭かっていなかろうが、


じゃんけんの結果はそのこととは、完全に独立して存在している、ということ。


ただ人間が、その人間の都合で「お金が賭かっている」というとと


じゃんけんを繋げて考えてしまっているだけなのだ。


賭け麻雀もそうだ。


麻雀というゲーム性はどこまでも、純粋に確率という神の領域。


お金を賭けようが、賭けまいが、変わるはずがない。


ただ金を賭けている人間が、その自分の価値判断を元に


「お金を賭けていること」を理由にしているだけなのだ。


お金を賭けると、試される。


その心の強さを。


お金を理由に、麻雀を曲げることなく


貫けるか、どうか、を。


麻雀は、お金を賭ける必要はない。


けれど、何かを賭けることによって、


「より、自分の本質に近づくこと」が可能となる、


ということは、否定できない。


「この受験に賭けています。」


「この仕事に賭けています。」


「命を賭けています。」


痛みのある所に生まれる意味もある。


麻雀は、(その必要性は別として)


賭けると、心の強さが見える。


自分は、本当のところ、「想い」しか麻雀に乗せてはいない。


使用しているのは、時間とゲーム代だけだ。


そういう自分の麻雀と、賭けることは、これまた独立した事象だけれど、


賭け麻雀も、本当のところ、私の愛する麻雀の側面なのだ。。


きっと自分は、賭けても賭けなくても、同じ打牌なんてできない。


そういう自分の麻雀と、賭けることは、これまた独立した事象だけれど、


「ノーレート麻雀サークル」という賭ける必要のない環境を、


運よく、もっていることから


賭け麻雀を「それは麻雀ではない」ということは、


やはりとても思い上がっている気がするのだ。


麻雀、賭ける必要はない。


だけど、賭けるとか賭けないとか、そういうことと関係なく


麻雀は存在しているわけだから、


賭け麻雀うんぬんと考えることもおかしい、と思ってしまうのだ。


沙霧.jpg


 



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手役の形におぼれない。 [哲学する麻雀]

 


本当に甘えないで、打つ、ということは


同時に手役の形に溺れない、ということだ、と思う。


南2局、南家


親番の残る23000点


得点も欲しい。


だが、それよりも、和了をすることだ。


他家の和了を防ぐべく、自分が和了をする。


ドラが①


ダブル南と、2ソウと八ワンを仕掛けて


六六①① ポン222 ポン八八八 ポン南南南 


12000点のテンパイだ。


けれど、この①と六ワンの待ち、


これはあんまりよい待ちではない。


直前に上家が、六を手出し。


その少し前に②を手出し。


六の手出しは、六六七、もしくは


五六六からの切り出しの可能性高い。


すなわち六ワンはもう1枚もない可能性が高い。


②の手出しも、①②と持っているところに


ドラの①を持ってきている可能性もあるし、


②②③に①を引いている可能性もある。


いずれにせよ、①も牌山に残っている可能性は少ない。


六六七①① ポン222 ポン八八八 ポン南南南


七を引いた。


値段は欲しいし、13枚の手恰好は、トイトイ。


だけど、和了牌が果てしなく少ない可能性が高い。


トイトイだから、を理由にトイトイにはできない。


だって、この状況での命題は和了すること、だもの。


六を切って、四七ワンに受けて、7700を和了の手組とする。
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本当の気持ちは大事だよ [哲学する麻雀]

 どんなことでも。


やる気がない、もしくは、やる気がどうしてもでない、


そういう時には、何もしないほうがいいんじゃないか?と。


やる気がないまま対局に挑む、


それは、いろいろ失礼ではないか? と。


麻雀にも対局者に対しても失礼だと。


やる気があれば、どんな些細なことでも教材になるし


多少の不都合も麻雀の魅力になる。


・・・・・・・・・・・・・・・


やる気がないなら、やる気をだせばいい。


対局の前にほんの少し、深呼吸をする。


頭の中で、


「自分にとって、最高の麻雀にする」


と、何度も念じる。


「悔いのない内容」にする。


と、何度も念じる。


麻雀をこれまで打ってきて、


一番苦しかったこと、思い出す。


一番楽しかったこと、思い出す。


一番尊敬する打ち手を思い出す。


懐かしい仲間を思い出す。


そして、これからの対局を思う。


無様な打牌は許されない。


楽しい麻雀も悪くない。


それは、よく解っている。


真剣に向き合うことが、偉い訳ではない。


だけど、私は、麻雀に対して「テキト~」に接することができない。


楽しい麻雀の中でも、心の底では真摯でいたい。


私は、麻雀に対してそういう「愚直な姿勢」しか持てないのだ。


勉強会だから、つかさ会だから、教材となる牌を切る。


楽しい麻雀だから、多少は夢を追う。


そういう自分にとっては、甘えた麻雀が、


どんどん自分を惨めにしてゆく。


どんなときも、死力を尽くせ。


自分の信じるところは、そこしかないのだから。


そう考えると少し吹っ切れた。


坂口安吾の言葉を思い出す。


ただわれわれは、めいめいがめいめいの人生を


精一杯に生きること、それだけをもって


自らの人生を悲しく誇り、いたわらなければならない。


自分以外の存在は景色だ。


大きな感動や、生きる道筋を示してくれる。


けれど、そのことと、自分がどうするか?は


実は全く別の問題なのだ。


いつから、自分で、いつまで自分なのか?


どこから、どこまでが自分なのか?


どこからきて、どこへゆくのか?


考えれば考えるほど、わからなくなる。


自分の定義なんて、不可能だけれど、


現在目の前の事象に挑む自分の存在だけは


自分だと、信じていたい。


おろそかにしないためには、おおきな決意が必要だ。


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大きな勘違い [哲学する麻雀]

麻雀っていうのは、

長い長いスパンで、その内容と結果を考えるものだ、と思う。

切ってはいけない、と思う牌が、

突然その瞬間だけ、

切ることを許されるようになる、なんてことはおかしい。

そういう矛盾だけは、やはりおかしいと思うのだ。

特に最近よく感じることは、

点棒がなくなって選択肢を失った場面での「無茶な打牌」。

例えば、オーラス、ラス目の親番。

「ここは、ゼンツ」

おかしいでしょう?

「無理に染めよう」

おかしいでしょう?

麻雀はそんなに簡単なものではないはずだ。

もちろん、ダンラスの親番なら

高得点を組みにいくべきだろうし、

押し気味に打つこともアリだろう。

けれど、点棒を持っていない、点棒が欲しいことが

ゼンツ!なんてゆう無敵な状態を生み出すことはおかしい。

どうせ、ラスなら、攻めたほうが得、

なんていう考え方は、半荘単位の麻雀。

そういう麻雀で、失うものは、点棒だけではない。

その半荘の損得だけを考える拙い麻雀だ、と私は思う。

もっと、もっと、大きく考えよう。

1日、1週間、1年、10年、一生。

長い長い時間を感じて、大切に大きく大きく麻雀を受け止める。

どんな時でも、必要な状況判断を怠ることなく、

その状況での精一杯を重ねる。

大きな意思を礎とするラスであれば、必ず未来へ繋がる。

安易なトップより価値のあるラスだって、きっとあるはずだ。

麻雀の一打は、とてつもなく重い。

誰かの心に残ることができたり、

思いがけない未来へ繋がったり、

うつむかなければ、果てしなく希望へ繋がる。

その緊張感だけは、どんな時でも

どんな相手とでも、失ってはいけない、と、思うのだ。

麻雀は、一生をかけて、描ききる夢の足跡。

自戒の念も込めて、おろそかにしないことを、肝に命じる。

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チートイの意味 [哲学する麻雀]

チートイツは守備にも攻撃にも使える汎用性に富んだ

面前限定の手役である。

点数は欲しい南1局の南家。

ルールは1発に裏、そして赤ドラが5の環帯にいるルール。

役牌を仕掛けている親番である上家が、少し逡巡して

ピンズの両面ターツを外した。

二三三六七七八八九44677

三ワンを外そうとしたけれど、場に一ワンが3枚。

上家親番は、ソーズ濃厚な捨牌。

けれどもしかしたなら、マンズもあるかもしれない、そんな状況だ。

二ワンに手をかけて、チートイをみる。

親番の河の効果で、場はどんどんソーズやマンズが高く

他の色は安くなってゆくはずだ。

ソーズやマンズを待ちに組むよりは、ピンズを

最終的な和了牌とできるように目指してみたい。

六を引いた。打九

三三六六七七八八44677

チートイのテンパイだ。

5ソウ8ソウもほどよく全体の河に落ちては

くれているけれど、ピンズほどではない。

とにかくピンズが安いのだ。

三三六六七七八八44677

赤ありの麻雀で、このようなタンヤオチートイ3200点を和了することは

あまり嬉しいことではない。

できれば、チートイ(イーペーコー)を生かした

面前のテンパイであることを生かした

リーチツモタンヤオを軸にして押し返したい。

ピンズ待ちに振り替えて、親から取りたい。

と、思っていたなら、⑦来た。

三三六六七七八八⑦4477

リーチ。

手牌13枚としては、違和感しかない⑦ピン単騎だが、

場をみると、本当に「もう待ちにするなら⑦しかないジャン?」

と語りかけてくるような全体の捨て牌の景色。

三三六六七七八八⑦4477

うおっし、いったれ~

「リーチ!でござる!」

次巡、三ワンをツモって嫌な予感がする。

三三三六六七七八八4477

ダマにしていたなら、このテンパイ・・

嫌な予感がする。

全体の捨て牌を見ると、赤5ソウは出ていない。

ソーズターツ上家親番の手牌に 組まれている可能性が高い。

ソーズ47ソウはほとんど見えている、が。。。

次巡、4ソウを掴んできた。

親の11600点に振り込み。

(今回は赤有ルール)

決めに行って、やられました。

チートイは攻撃と、守備に長けた手役なのだろうけれど、

私は、やはり、その攻撃のタイミングがうまく掴めない。 


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100倍の勇気 [哲学する麻雀]

目の前の溝に、木材を橋として渡してある。

これを、渡ることは容易だ。

だが、この「木材の橋」が300メートルの高さの渓谷に渡されていたらどうか?

おそらく、恐ろしくて容易には渡れない。

恐怖が心を支配する。

最大限の注意を払い、安全を確認しながら行動するはずだ。

この高い渓谷の「木材の橋」を渡るためには、恐怖を克服する為の勇気が必要。

勇気とは、そう、恐ろしいものを恐ろしいと知りながら、持てる力を総動員して挑む決死の想いである。

麻雀も同じだ。

恐怖に支配された状況であっても、その牌を切り出すことができるか?である。

ノーレート麻雀でノーレートだからと、ブンブン勝負に向かう人をよく見かけるけれど、

まあ、極端な意見にはなりますが、誤解を恐れず言い放つならば、

「そんな麻雀打って楽しいですか?。」

麻雀の一打は、特にノーレートになればこそ、その重さはお金に換算できない。

麻雀を楽しむためには、なによりも麻雀と対局者を大切にしなければならないと私は思う。


つづきです。


ツモ③ 打⑦

33③③④⑨白白発発中中北

⑨を切りづらくする為に、⑦を先に外す。

大三元は必要ない。

②をツモる。

33②③③④⑨白白発発中中北

ツモ切る。

ピンズの染め手では、安易すぎる。

下家は、Y氏。

不要な2つの色を切り出すホンイツは、上家としても、ぬるい自分本位な牌組だ。.

色を絞らずに、縦で仕掛ける。

③か3ソウが先に打たれるのを待つ。

その前に白、発、中、が打ち出されもスルーだ。

例えば、白、をスルーすれば、連鎖でそのあと発、中が取れるかも知れない。

3ソウが出る。

ポン。

打④。

できるだけピンズの匂いを消したいけれど、

もうこの③はでない。

そして、Y氏から白が出る。

(後で訊ねたならば、この白はトイツ落とし

ポン

打北

中を引く。

打⑨

③③発発中中中   ポン白白白 ポン333


大三元テンパイ。

これは、③ピン引きにかける。

発での大三元など望むべきもない。

③で充分。

1枚居てくれと。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

私のトイメンが、無作為に中張牌を加カンした。48の殺人技の一つ「大ミンカン」である。

!!!!!  

そして、リンシャンからツモッてきた牌を、そのまま切る。

発。

!!

ロン!

そのトイメンさんの飛びで、終局となる。

私のトップ。

だが、なんとも忸怩たるトップだ。

発を切って、役満フリコミました、ツイてない、という問題ではない。

もちろん振り込んだ彼が悪いわけではない。

彼は純粋に麻雀を楽しんでいるだけである。

ただ、彼は知らないだけなのだ。

一打の重さを。

一打の恐さを。

一打の想いを。

彼のこの発を打ち出す理由は、勇気ではない。

勇気とは言わせない。

無作為な絵合わせな一打だ、と思われてもいたしかたないだろう。

ここが、つかさ会なら、その理由を説明することもできるし、教材にもできる。

だが、ノーレートフリー。他人の打牌への口出しはご法度だ。

点棒を受け取りながら、我慢する。

これもまた麻雀なのだと。

お金がかかっていれば、振り込んだトイメンさんも、お金で責任がとれる。

だが、ノーレートでは、それはない。

行き着くところは、こんな牌を切る人間とは打たない、である。

あまりにも、哀しい結果。

もう、今日は卓を割ろうかな。

そう思った刹那、まるで私の心を読んでいるかのように、意外にもY氏が口を開いた。

「そのカンは、どうかな?」

そして、その加カンが、いかに場にそぐわない行為か、優しく諭す。

振り込んだトイメンさんも、よく理解してくれたらしく、大きくうなづく。

経験の差。

なるほど、想いは伝え方なのだな、と痛切に感じた。

私は、温度が高いので他人にモノを伝えることが苦手だ。

Y氏のように、優しい言葉を使えるようになりたい、と思った。

今回の残念な大三元は、私に大きなことを教えてくれた。

麻雀に正解はない。

けれど、想いは試行錯誤しながら、苦しみながらでも伝えなければならない、と。

次に、トイメンさんと打てる日が楽しみである。



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三元牌の捌き方(役満の意味を説明できますか?) [哲学する麻雀]

役満は、空気を読まなければダメだと思う。

役満は破壊。その和了に意味はあるのか?

昔、スーアンコーテンパイを組んでいたひろりんのご子息が、

場に一枚切れの白を切った。

その白は親にめちゃめちゃきつい牌。

しかも、その親は北家スタートの癖に60,000点くらい叩いている。

他のみんなが我慢している牌。

「スーアンコーかね?」

トイメンで、後ろ見しているひろりんが寂しそうに口を開く。

少しドヤ顔で、ご子息は手を開く。

だが、場のひりついた空気で、事の重大さを痛感する。

「その牌を切ることについて説明がつくかね?教えてくれんかね?」

しばしの沈黙が続く。

「役満だからかね?」

ご子息は、コクリとうなづく。

「あんた、そんな麻雀打って楽しいかね?」

対局者の全員が、もう既に、役満だからとか、手が入っているから、などどいう、

身勝手な都合で牌を切るステージではなくなっていた。

高い値段の手役や、役満など、対局中なんども目の前をよぎる。

だが、それでも、自分の麻雀をしっかり守れるかどうか、常にそれを問われる。

説明のつかない牌を切ってはいけない。

最高の値段の最高形を慮ることは大切。

だがそれ以上に、場にあった充分形を見つめ、見つけるようにしたい。

ハネマンテンパイだからと、親リーに根拠のない牌を切る。

これは、麻雀ではない。ポンジャンゲームだ。

期待値という言葉を自分のエゴでとらえてはいけない。

私は、根拠ない牌は絶対切らない。

自分が勝負手の時に、切りたくないを切らざるを得ないと感じていることについて

どう真摯向かい合うかである。

よく自分に問うてみよう。

説明のつかない牌を我慢する。打てる。

それでも、トップは取れる。

でも、根拠のある模打の積み重ねの結果のトップでなければ何の意味もない。

例えば

ラス前

トップ目   55,000点

2着     29,000点

3着     25,000点

4着     11,000点


こういうときの、役満ツモは、充分に意味がある。

けれど、役満ツモよりも、トップ目ハネマン直撃の方が遥かに価値があると私は思う。


   


過去の対局から。

東一局の親番で、Y氏が小気味よく点棒を積む。

しっかりと、確実に形が入っていく。

北家の私は、捌く事ができずに点数を削られる。

その3本場。ドラ北

三四九九②③④④⑤⑥⑦⑧⑨

ダマの1000点で、一応①でのイッツーへの振り変わりを待つ。

振り変わってもリーチは打たない。

北家だからだ。

親に対して、ツモ切りオンリーになるなんて論外。

和了することもなく、

Y氏がドラの北を優しく晒す。

ツモチートイドラドラで4000オール。

Y氏の点棒が50000点近い。

もう、これは、自分が捌くしかないのか?

そう思った刹那の、東1局4本場の配牌。

三33③④⑦白白発発中中北 ドラ四

ほんのり大三元も見える。

ホンイツもみえるけれど、これは牽制の効くトイトイ本線。

役役トイトイ。状況によれば、三元牌を討ち取るため、

白、発、中のいずれかの牌をはずすことも考える。

前局の和了牌である、北は切らない。

ツモ⑨ 打三

33③④⑦⑨白白発発中中北

ツモ③ 打⑦

33③③④⑨白白発発中中北

大三元は必要ない。

Y氏にこのまま、トイツ場のツモで手を組まれたならば、またチートイで和了されてしまう。

大三元がトラップだ。

このまま、トイトイを組む。

小三元、トイトイもトラップ。

必要なことは、マンガンクラスかぶせることだ。

エラーのないY氏が親かぶりするとは思えないので、

私は高い手のツモ和了はできないと思う。

とにかく、三元役で和了するのならば三元役の匂いを消さなければならない。

一枚目の三元牌はスルーしたい。

できるだけ鳴き辛い牌から仕掛けて、残りは和了しやすい形が入っていると思わせたい。

私は、北家。時間制限の無いこの対局では

私には無限のチャンスがある。

親番もあと2回ある。

だが、この局が勝負だと感じる。




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酔いどれまーじゃん2015 [哲学する麻雀]

 文豪とか、哲学者とか、

とにかく酔っ払ってるイメージがかっこよくて、

ああ、お酒ってかっちょいいんだなー、と思う時代があった。

坂口 安吾なんて、いつも飲んでいるイメージがあるし、

伊集院静氏の飲んでいる風体など、かっこよい、それにつきる。

上手にお酒とつきあっていけるスキル、それが大人の証だと思う。

飲んでお酒を打ってはいけません。

気が付くと、そんな風潮になっていて、

飲まない、賭けない、吸わない、が

賭け麻雀と対局に位置づけられている気がする。

ずいぶん昔のハナシ。

ぐてんぐてんに酔っ払って、

どうしてもまーじゃんが打ちたくて

打ちたくて仕方なくって、雀荘に飛び込んだ。

酔っ払って打つ麻雀は、最高!

大胆に戦えるので、運も味方して大勝ちを収める。

楽しかった。

けれど、翌日。

なんにも、覚えていないでのである。

対局の内容を何一つ。

赤がいっぱいとか、チップがいっぱいとか、

そんな記憶はあるのだけれど、

誰と打ったか、すら覚えていないのだ。

「お酒飲んで、麻雀打つのやめよ。」

そう思った。

自分の記憶としてあずかり知らぬ対局が存在していることが

ものすごく後ろめたかった。

打ってる最中は、お酒飲んでいると楽しい。

けれど、きっとそれは、

わたしの知る麻雀とは違う麻雀なのだろう、と思う。

酒を飲んでも、飲まれずに、

かっちょよく麻雀を打てたなら

これまた楽しいだろうな、と現在でも思わなくはないけれど

きっと、私はお酒に勝てないから、それは望まない。

自分の意思決定が蒙昧になることが、怖くて

お酒を敬遠している私は、まだまだおこちゃまなのだと思う。

GW.一度だけ杏フィズを飲んで、対局に臨んだけれど、

なんだか、とてもイケナイことをしている気がして、切なかった。

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パラロス本家↓

http://wing6877.blog.so-net.ne.jp

つかさ会。どようび。

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