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三元牌の捌き方(役満の意味を説明できますか?) [哲学する麻雀]

役満は、空気を読まなければダメだと思う。

役満は破壊。その和了に意味はあるのか?

昔、スーアンコーテンパイを組んでいたひろりんのご子息が、

場に一枚切れの白を切った。

その白は親にめちゃめちゃきつい牌。

しかも、その親は北家スタートの癖に60,000点くらい叩いている。

他のみんなが我慢している牌。

「スーアンコーかね?」

トイメンで、後ろ見しているひろりんが寂しそうに口を開く。

少しドヤ顔で、ご子息は手を開く。

だが、場のひりついた空気で、事の重大さを痛感する。

「その牌を切ることについて説明がつくかね?教えてくれんかね?」

しばしの沈黙が続く。

「役満だからかね?」

ご子息は、コクリとうなづく。

「あんた、そんな麻雀打って楽しいかね?」

対局者の全員が、もう既に、役満だからとか、手が入っているから、などどいう、

身勝手な都合で牌を切るステージではなくなっていた。

高い値段の手役や、役満など、対局中なんども目の前をよぎる。

だが、それでも、自分の麻雀をしっかり守れるかどうか、常にそれを問われる。

説明のつかない牌を切ってはいけない。

最高の値段の最高形を慮ることは大切。

だがそれ以上に、場にあった充分形を見つめ、見つけるようにしたい。

ハネマンテンパイだからと、親リーに根拠のない牌を切る。

これは、麻雀ではない。ポンジャンゲームだ。

期待値という言葉を自分のエゴでとらえてはいけない。

私は、根拠ない牌は絶対切らない。

自分が勝負手の時に、切りたくないを切らざるを得ないと感じていることについて

どう真摯向かい合うかである。

よく自分に問うてみよう。

説明のつかない牌を我慢する。打てる。

それでも、トップは取れる。

でも、根拠のある模打の積み重ねの結果のトップでなければ何の意味もない。

例えば

ラス前

トップ目   55,000点

2着     29,000点

3着     25,000点

4着     11,000点


こういうときの、役満ツモは、充分に意味がある。

けれど、役満ツモよりも、トップ目ハネマン直撃の方が遥かに価値があると私は思う。


   


過去の対局から。

東一局の親番で、Y氏が小気味よく点棒を積む。

しっかりと、確実に形が入っていく。

北家の私は、捌く事ができずに点数を削られる。

その3本場。ドラ北

三四九九②③④④⑤⑥⑦⑧⑨

ダマの1000点で、一応①でのイッツーへの振り変わりを待つ。

振り変わってもリーチは打たない。

北家だからだ。

親に対して、ツモ切りオンリーになるなんて論外。

和了することもなく、

Y氏がドラの北を優しく晒す。

ツモチートイドラドラで4000オール。

Y氏の点棒が50000点近い。

もう、これは、自分が捌くしかないのか?

そう思った刹那の、東1局4本場の配牌。

三33③④⑦白白発発中中北 ドラ四

ほんのり大三元も見える。

ホンイツもみえるけれど、これは牽制の効くトイトイ本線。

役役トイトイ。状況によれば、三元牌を討ち取るため、

白、発、中のいずれかの牌をはずすことも考える。

前局の和了牌である、北は切らない。

ツモ⑨ 打三

33③④⑦⑨白白発発中中北

ツモ③ 打⑦

33③③④⑨白白発発中中北

大三元は必要ない。

Y氏にこのまま、トイツ場のツモで手を組まれたならば、またチートイで和了されてしまう。

大三元がトラップだ。

このまま、トイトイを組む。

小三元、トイトイもトラップ。

必要なことは、マンガンクラスかぶせることだ。

エラーのないY氏が親かぶりするとは思えないので、

私は高い手のツモ和了はできないと思う。

とにかく、三元役で和了するのならば三元役の匂いを消さなければならない。

一枚目の三元牌はスルーしたい。

できるだけ鳴き辛い牌から仕掛けて、残りは和了しやすい形が入っていると思わせたい。

私は、北家。時間制限の無いこの対局では

私には無限のチャンスがある。

親番もあと2回ある。

だが、この局が勝負だと感じる。




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酔いどれまーじゃん2015 [哲学する麻雀]

 文豪とか、哲学者とか、

とにかく酔っ払ってるイメージがかっこよくて、

ああ、お酒ってかっちょいいんだなー、と思う時代があった。

坂口 安吾なんて、いつも飲んでいるイメージがあるし、

伊集院静氏の飲んでいる風体など、かっこよい、それにつきる。

上手にお酒とつきあっていけるスキル、それが大人の証だと思う。

飲んでお酒を打ってはいけません。

気が付くと、そんな風潮になっていて、

飲まない、賭けない、吸わない、が

賭け麻雀と対局に位置づけられている気がする。

ずいぶん昔のハナシ。

ぐてんぐてんに酔っ払って、

どうしてもまーじゃんが打ちたくて

打ちたくて仕方なくって、雀荘に飛び込んだ。

酔っ払って打つ麻雀は、最高!

大胆に戦えるので、運も味方して大勝ちを収める。

楽しかった。

けれど、翌日。

なんにも、覚えていないでのである。

対局の内容を何一つ。

赤がいっぱいとか、チップがいっぱいとか、

そんな記憶はあるのだけれど、

誰と打ったか、すら覚えていないのだ。

「お酒飲んで、麻雀打つのやめよ。」

そう思った。

自分の記憶としてあずかり知らぬ対局が存在していることが

ものすごく後ろめたかった。

打ってる最中は、お酒飲んでいると楽しい。

けれど、きっとそれは、

わたしの知る麻雀とは違う麻雀なのだろう、と思う。

酒を飲んでも、飲まれずに、

かっちょよく麻雀を打てたなら

これまた楽しいだろうな、と現在でも思わなくはないけれど

きっと、私はお酒に勝てないから、それは望まない。

自分の意思決定が蒙昧になることが、怖くて

お酒を敬遠している私は、まだまだおこちゃまなのだと思う。

GW.一度だけ杏フィズを飲んで、対局に臨んだけれど、

なんだか、とてもイケナイことをしている気がして、切なかった。

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いつも、いつでも、ゼロ発進! [哲学する麻雀]

腕にかけていた杖が新車バイシクルの前輪にぶち刺さる。

前輪がロックされて 死ぬかと思った。

いいんだ。

この苦境から何かを学んでやる。

①日頃からストレッチをする。

②自転車は倒れないように駐輪する。

③雨の日は、自転車は使わない。

ほら、こんなにたくさん勉強できた。

わたしは、運がいい。

::::::::::::::::::::::::::::: 

技や技術は、教わるものではない。

自ら、心の底から欲して、貪欲に奪ってゆくものなのだ。

とおもっている。

簡単なはずはない。

というか、簡単なら価値はない。

麻雀は、本来は教えあうのではない。

教われば一瞬ですむものを、推察して回り道をして悩むから

価値が生まれるのだ、と私は思う。

教えあう、という言葉を私は、正しくは

「他人の意見を聞き、自分で考えること」という意味で使ってきた。

なので、自分で考える習慣のない意見交換はこれに該当しない。

「リーチは打たないほうがいいよ」

「じゃあ、打ちません」

ではなく、何故、そうなのか、考えてみる、ここに意見交換の価値がある。

最近は戦術書なども、出回っているようだけれど、

浅田次郎氏の言葉ではないけれど、

本を読んで知識を得ようなんていうのは、横着だ。

麻雀を教わる、という姿勢も教われば身につく、と考えているのであれば

それは、つまるところそれは横着だ、といえてしまうのではないか?

そんな心意気では、きっと何も身につけることはできない。

「何が何でも、吸収してやる」

「全てを貪欲に身に着けてやる」

そういう気概が、私は必要だと思う。

麻雀は、ただ教えてもらうのではない。

言葉遊びのようだけれど、

自分で学ぶひとつの手段として「他人の意見を伺うこと」

その他人という存在が上級者であれば、形式上「教わる」という形になる。

そうして、教わるその道中で、「自分が考えるきっかけ」

を見つけることに価値があるのだ。

知らなかったことを、知ることの喜びの本質は、

知らなかったということに気づき、自分で考えることの喜びに他ならない。

いつも、どうせ、最初はゼロなのだから、とおもえば

未来にはプラスしかない。

そう考えると、生きているだけで儲け物だ。

貪欲に未来に向けて学び続ける姿勢に、辿り着けないゴールはない。

知的好奇心は、マズローの5段階の欲求の頂点、

自己実現の欲求の具現化した知的な欲求だ。

これに貪欲であることは、決してあさましくはない。

より熱く厚い教養を得て、人は人として成長してゆく。

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勝つことより負けないこと。(賭け麻雀) [哲学する麻雀]

24年前

金曜日の夜に、有り金を抱えてピン雀。

バイトの給料と仕送りをすべて握りしめて

月曜の朝7時まで。

途中何が起こったのか、覚えていたくないくらい

完膚なきまでにたたきのめされ、財布には数千円しかなかった。

ただ、麻雀打ちたいだけなのに。

悔しかった。

弱ければ、麻雀を打たせてもらえないことや、

大切なお金を、楽しむと大切なお金を奪われてしまい楽しくなくなること

そういうことが綯い交ぜになって

ただひたすら負けたくない、と願った。

打ちたいから。

勝たなくたってよい。

負けなければよい。負けなければ打ち続けられる。

自分より弱い人間と打つことだ。

自分より下の着順の人間と打つことだ。

逆風を感じたら、卓を割ることだ。

自分は強いと思ったことはない。

自分を強いと思わないから、負けないでいられる。

勝てば、また打てる。負けなければまた打てる。

それを繰り返すうちに、空しくなる。

いつまでたっても、出口のない迷路の中にいる、そんな気分。

自分が和了すれば、他家は和了できない。

他家同士の振込みなら無傷。

そんなことばかり考える麻雀。

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つかさ会。どようび。1月3日も開催するそうです。

きっと、大天使の生誕祭でもあるんじゃないかしら。

会場などの情報は、こちらをクリックしてください。↓

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狩猟民族と農耕民族 [哲学する麻雀]

人類が狩猟民族だった頃、

狩ってきた獲物は、すぐに食べないとどうせ腐るから

自分がおなか一杯になると、他人に分け与えた。

獲物は、食べ物は、現在の自分の空腹を満たすものであって

未来の自分の空腹を満たすことはできない。

だから、他人と気持ちよく分け合うことができた。

むしろ、分け合うことが当たり前だった。

けれど、農業が生まれ、保存のきく食料が現れた。

明日の空腹を満たす食料の誕生である。

これにより、人は他人に分けることをせず、

明日の自分の為に、貯蓄をするようになる。

そうして、富む者と、貧しい者が生まれる。

誰もが聞いたことのある「とある経済学者」マルクスたんの論旨だ。

私は、狩猟民族であったころの人間が好きた。

めっさかっこいいとおもう。

もちろん、それは、現在のわたしにとっては、

果てしなく困難、というか不可能。

私利私欲の為に溜めこまない。

分け合う。

正しい生物という感じがする。

ライオンは、おなかいっぱいになると、狩りはしない。

おなかが減ったなら、そこではじめて必要な獲物を探す。

そこには、常に、飢えて死ぬ、覚悟がある。

だから、来年はみることが叶わぬ桜を愛で、

明日眺めることの叶わぬ夜空の月を美しいと思うことができる。

そして、となりにいる家族や友人を、

心から愛しいと思うことができるのではないだろうか?

誠実な感じがするのだ。

現在を生きているカンジ。

実生活でそういう選択をできない私は、せめて麻雀だけは、と思う。

点棒ではなく、直面している状況を精一杯生きる。

点棒を理由にするのではなく、点棒を結果としたい。

自分の集めすぎた点棒なら、他家に返したっていい。

点棒は、次の半荘に持っていけないけれど、

良い麻雀を打った思い出は、未来に残すことができる。

二度とない、明日もない、刹那な一打だからこそ、たまらなく愛しいのだ。

こんなことを思うのは、不謹慎かもしれないけれど、

これが最後かも、と心にとめたなら、世界は輝きを取り戻す。

要するに、私は、明日も無事で生きているであろうこと、

明日も、その気になれば麻雀が打てること、に甘んじて

きっと、思い上がっているのだ。

そして、そうであること、に完全に慣れて根腐れしている。

:::::::::::::::::::::::::::

4ブロックと1雀頭で、組むべきだお!

というハナシを最近は、しっかりと伝えようと思っている。

まず、そこからだ、と。

そんなときの、Nにゃんの手牌。

①①③⑤⑥⑦12367北北に六ワンツモ。

ドラなし、点棒状況もなし。

何を切りますか?

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:::::::::::::::::

つかさ会。どようび。なかにゃんがいないから、おひるからです。

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1がつ3にち、大天使の生誕祭まで、あと38にち!


自分でもよくわからないテンパイ押しの是非 [哲学する麻雀]

 今回、ちゃんと書けているのか、自信がないです。。

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::

その日は、嫌なことが重なっていた。

人生には、よりによって嬉しくないことが連続して、重なって起こることがある。

どうして、こういう巡りあわせなのか?

どうして、かくもままならないのだろうか?

そのまま帰宅する気にもなれず、古い城跡のある方向へ歩を進める。

少し肌寒い風が、頬を触り、ふと見上げた空の星空。

「ああ、俺が、こんなに凹んでいるのに、星空は変わらないんだな。」

と痛感して、睥睨する気持ちも手伝って、見上げた夜空。

見つめていると、なんとなく寂寥感あふれる心持ちになる。

変わらず、宇宙はそこにある。

自分の私的な思いなど、全くおかまいなしに、事象はそこに存在していて、

 時間は全く持って無慈悲に、まだ見ぬ世界へ時を刻む。

そうか、事象と自分の想いは、まったく別の世界の出来事なのだ、と痛感した。

私の都合なんて、それは本当に私の都合でしかないのだ。

夜空のお星さまには、カンケーのないハナシなのだ。 

それから、激情に身を包まれそうになった時には、その「当たり前のこと」を思い出す。

自分がどうあれ、世界はそこになる。

神は天にありて、世は全てこともなし、だ。 

:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: 

麻雀もそうではないか?

テンパイをしているから、とか、和了したい、とか、そういう私的なものとは

全く関係なく、牌はそこに存在している。

私の頭の中に「ある」から存在しているのではなく、

私の頭の中に「存在していなくても」おそらくそこに「ある」のだ。

私の手牌が、インパッチクラスで、とても和了したいと思っていることと、

私の切り出す牌が和了される可能性とは全く繋がるところが存在しない。

和了される牌は、和了されるし、和了されない牌は和了されない。

存在するのは、和了される牌と和了されない牌だけだ。 

和了されそうな牌などというものは存在しないし、

それが、自分の手牌と関係などあるはずがない。 

自分の手牌の値段が高いから、通りそうな牌が和了されることとなったり、

和了されそうな牌が、急に安全牌に変化するなどということは、あり得ない。 

だから、とおる牌は、いつでもとおるハズだし、

危険な牌は、いつどんなときでも、切ってはいけない。

だって、和了される、と信じるに足る牌を切り出すことは、

論理的に矛盾しすぎている。

だって、和了される、と信じているにたる牌なのだから、それを切ることはおかしい。

他家に和了されてしまうのだから、自分はその未来において、和了出来ないはずだし。 

自分の手が勝負手になったから、危険な牌も切り出す、ということは、

そこに存在する事象を、自分の都合で歪める行為だ。

通ると思った牌を点棒状況で抑えることも、同じ。 

安全だと信じるに足る牌を、自分の保身で切り出さないこともまた、

そこに存在する事象を、自分の都合で歪める行為だ。

気が付くと、私は一か八かの牌を全く切らない麻雀を打つようになっていた。

安全だ、と信じる牌しか切り出さない麻雀。

そういう打ち方にしないと、今度は、

危険だ、と思う牌以外は全て切り出さないと論理的に矛盾してしまう、と考えたからだ。 

けれど、このことが、正しいのかどうかは、わからない。

麻雀も人生も、よくわからない「運を天に任せる」部分というものが存在する。

そういうものがよろしくない、という理屈もまたおかしい。 

精一杯手が育って、無スジの危険牌を切り出したい、そういう状況は多々ある。

けれど、私は、

ここで、「こういう無スジの一番危険だと自分で思う牌」を切り出さなければいけない 

そのことを考える。

和了される、と思っている牌を切らなければいけない、そういう状況。

勝負、といえば、気持ちも高揚して切り出せるだろう。

けれど、少なくとも現在の私にその選択肢を持つことはできない。

また、現在このように考えていることに、意味がアリ

何か解を導きだせるのか、というと、これもまた本当にわからない。

小利口な様相でありながら、非常にばかげている、とも、思わなくはない。

現実の対局の中で 

 常に和了されそうな牌と、和了されそうにない牌の判別が

しっかりできているわけではないから、

どうにもならなくなる局面にも結構遭遇する。

 その時は自分の勉強不足を恥じ、安全な牌をぺたんと切り出す。

押し返す力がなかった、ということ。

自分に押し返す力があろうがなかろうが、他家の和了牌は変わらずそこに

存在しているにも関わらず、だ。 

自分が切り出したかった牌が何であろうと、他家の和了牌はそれとは関係なく

そこに、存在しているにも、関わらず、だ。 

なんだか、情けない麻雀である。 

人事を尽くして天命を待つ。

という言葉がある。

私は、例えば、麻雀に対してもこれで悔いがない、というところまで努力をしていない。

だから、これが、精一杯だ。和了されるならそれもよい!

という、天を仰ぐような麻雀が打てないのだ。

だから、現在のこの私の考えも、未来においては、

全く違うモノに変化している可能性は大いにあるのだ。 

こういうふうに、考えながらも、当るかもしれない牌テンパイを理由にして切り出して、

「その結果に応じた次の戦略を準備すること」、も、また、麻雀なのかな?

との思考も、脳をよぎる。

事象に備える力と、事象に対応する力。

後者を持っていて自信があるのであれば、テンパイ押しも全然問題はない、と思う。

まだまだ、対応力の弱い自分には、「テンパイ押し」(テンパイを理由に押すこと)に

ならない状況を作り出すように努力するより術はない。

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10月25日に変更です。

真なる勉強会となるべく準備中です。

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つかさ会、10月18日正午から、となります。

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大事にするってどういうこと? [哲学する麻雀]

よく、このブログで私が、「牌や対局者を大事にする」という言葉を使っているけれど

 それって、抽象的すぎるから、うまく伝わっていないのではないか?

そう思ったので、ちょっと記事にしてみる。

「牌を大事にする。」

大事にしている、ってどういうことだろうか?

相手が大事にされている、と感じることを指すのだろうか?

だとすれば、麻雀を牌を大事にする、って、相手は無機物なのだから

大事にされてると思っているかどうかはわからない。

だから、これは私の考えなのだけれど、

ここは擬人法で考えてみて、麻雀が牌が人だとしたら、

大事にされていると思うかな?

と、考えてみることに、私はしている。

その牌と巡り合えたことに、本当に感謝できているか、どうか?

牌が、私と巡り合ったことを、喜んでくれているか、どうか?

それをいつもいつも自分の心に問うのだ。

例えば、8000点までなら振り込んでもトップ、という状況であっても、

自分の手牌が頑張っているのであれば、

差し込んだり、振り込んだりは、私にはできない。

そうすることで、おそらく本来の麻雀の目的であるトップ取りがかなうとしても

私は、「そんな牌に失礼なことをしてまで勝つくらいなら麻雀をやめる。」

と、本気で考える。

理由?

「嫌だから。」

「そういう麻雀を打つことが嫌だから。」

強打者相手に敬遠するようなものだ。

自分が納得できない。横着な感じがする。

やはり、オーラスなどというものは、自らの手で決着をつけるべきだ。

さらに、困ったことに、私は他人の手牌も大切にしたい、と思っている。

だから、デキメンツを壊したりしてむりやり高い手を作っていたり、

(明らかにヤリスギだ、と思う所作。そうでない場合もごくまれにある。)

高得点の為にフリテンリーチを打っている他家をみると、本当に胸が苦しくなる。

その人にはその人の考えがある、それを批判する権利など私にはない。

けれど、

「牌がかわいそうだ。」

と思ってしまう。

ひどい親のところに生まれてしまった子供を見ているような気持になる。

自分には、何もできない。

もちろん他人の麻雀なのだから、私見であっても述べてはならない。

だから、とてつもなく苦しい。

私は、麻雀に対して思い上がらず、「大切にしている」人と

同卓させていただきたい。

フケイサンができなくてもいい。いつかできるようになる。

成績なんて気にしなくっていい。

そんなものよりも、「大切にできる気持ちが大切。」だ。

天文学的な確率で、自分と巡り合う牌に、運命の奇跡を感じる。

大切にしよう、と思わなくても、当たり前のように大切にできる。

そういう人は、同時にまた当たり前のように、

周囲の人間も大切にできている訳だから、なお素晴らしい。

私の考えが説得力を持たないのは、きっと実践できていないからだろう。

それは、そうだ、「大切にしよう」と思わなければ「大切にできない」と

いうことはすなわち、「大切にできていない」ということなのだから。

宗教的な色合いを持つ発言となってしまうのだけれど、

我々は、等しく様々な「人生を楽しむ機会」をいただいている、のだ、と私は思う。

誰からいただいているのかは、わからない。

それは、自分がどこから生まれてきて、どこへゆくのかわからない、

ということと同じくらいわからない。

けれど、それは価値があることだと、私は思うから大切にしたい、とおもうのだ。

毎週食べている、ココイチのカレーだって、価値がある。

「ああ、みんなとカレーを食べることができて幸せだなあ、」

と感じることができたなら、それはもう幸せなのだ、と思うのだ。

ポリアンナの「よかった探し」のようなものだ。

世の中の様相なんて、自分の心の持ち方でいくらでもその姿をかえる。

しあわせなんて、「大切に慈しむ心」さえ持ち合わせていれば、

いつでも気がつけば、そこにある、ものなのだと思う。

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希望は、絶望を粉砕するためにある。 [哲学する麻雀]

 朝、目が覚めて、始まる一日のその魅力は、そのひとの想いひとつだ。

世を拗ねて、「人生なんてチョーたるいっすよ。」

なんて厭世的な心持ちでは、楽しいことやときめくことにも、

気が付くことができない。

「世の中が、つまんない、」のではなく、「その人がつまんない、」のだ。

生物学的には、「生きて、ただ死にゆくだけ」の「悲惨な存在である」ところの人間が

それでも、人生に喜びを見出すためには、希望が必要である。

できない、かも知れないことを、出来ない、と嘆く人間は、どこにも到達できない。

できない、ことを、楽しみ、それを克服しようとこころみる人間は、

こと、問題を解決できなかったとしても、どこかに着陸できる。

挑戦せずに後悔するよりも、挑戦して後悔するほうが価値がある、

などどいう意見もあるけれど、

挑戦するマインドを持っている人間は、後悔などしない。

後悔をする暇があったら、その事象を総括して次のことに挑戦している。

私は、後者でありたい。

バカなことや、無駄なことだと思われがちなことを、

頭の中で「そうだ」と諦めてしまわずに、とりあえす汗を流してみたい。

:::::::::::::::::

麻雀もそうなのだ、と思う。

勝手に、自分の小さな裁量で、限界を決めて牌を組み

それを、誠実だ、とか、賢明だ、とか、そういう言葉に置き換える。

そういうものを、精一杯だと、自己満足に浸る。

そういう麻雀は、つまらない。

私は、そういう麻雀にはまったく魅力を感じない。

ただ、可能性を追って、無謀なマネをすることとも、また許されない。

点棒だけを追って、ありえない暴牌を繰り返すなど、もってのほかである。

つかさ会で、高得点の最高形を目指す若者に、

「それは、場の状況的に充分だから、リーチを打ってみては?」

「それは、やりすぎだよ。」

と、アドバイスをさせていただく機会が多くあるけれど、

いつも、そのアドバイスが、若者の「可能性を追う感性」に

蓋をしてしまっているのではないだろうか?と思う。

熟練されたノウハウや戦術には価値があるけれど、それは絶対ではない。

やりすぎだ、と感じているものが、果たして本当にやりすぎかどうかなんて

どの見地から、言えることなのだろうか?

例えば、オーラス1000点でオーケイな状況で

本人が責任をとれるのであれば、ドラメンツを切って

清一色に移行したりなどという麻雀もアリだと思う。

ただ、それは、洗練されていなければならない。

大胆かつ繊細に。

魅力のある麻雀とは、理屈で挑戦をしない麻雀ではない。

理屈を理解してなお、可能性にかける心意気のある麻雀だ、と私は思う。

1500を、10回和了してトップをとる麻雀もあれば、

一撃で決める麻雀もある。

私は、前者の麻雀は、他家の和了する可能性をただひたすらに

潰している気分になるので、好まない。

手数の多さは、技術なのかも知れないけれど、

私は、基本そういう麻雀を好まない。

他家の精一杯組んだ手組と、自分の精一杯組んだ手組を戦わせる。

そういう麻雀がいい。

もし、私が、つかさ会で、わきまえず、守備を度外視して毎局捌き続けたなら、

同卓者は、「麻雀にならない」し「何の勉強にもならない。」

貴重な時間を頂戴して、手麻雀を披露したところで、

それは趣味の悪い自己満足の自主映画のようなものだ。

それよりも、終局までめいっぱい牌を使って可能性を探って欲しい。

和了しなくてもよい。

振り込んでもよい。

挑戦してみて欲しい。

先代のわが総長の言葉だと、覚える

「人生に不可能はない。」

この言葉に等しく、挑戦する限り麻雀にも不可能はない。

未来に向かう限り可能性は無限だ。

それを、その可能性を信じて希望する限り、どんな絶望だって乗り越えることができる。

配牌や場の状況に絶望することがあっても、諦めてはいけない。

どんな、困難も「乗り越えることができるから」

現在自分の身の上に降りかかっているのだ、と解釈しよう。

乗り越えることが、結果できなかった、としても。

それは、最初から諦めて絶望してかかるよりも、はるかに人間として、報われる。

:::::::::::::

私は、いつまでも、「若い友人に夢を語る」そういう人間でありたい。

ニセモノだ、ウソツキだと、非難されたとしても、

そういう風に、前のめりに生きていたいのだ。

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つかさ会、8月30日、午前11時から

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4人で打つこと。 [哲学する麻雀]

麻雀は4人で打つもの。

相手が何を考えているのか?の推察。

相手が何を考えて、どのように牌を組んでくるか?

それを鑑みた上で、自分の手牌を重ねる。

場の状況の把握とは、

点棒状況を踏まえた「相手の思考」をしっかりと把握できていることをいう。

例えば、それが大きな大会などであればなおのことだ。

その大会での相手の順位が、例えば予選通過ぎりぎりのだとすれば

慎重に牌を組むだろうし、

大量得点を獲得していて、予選通過はほぼ確実、というのであれば

多少の振込みは、恐れないだろう。

また、予選通過に程遠い順位の人間であれば、

かなり攻めっ気の強い手組となる可能性が高い。

こういうことを踏まえずに、ただ「自分の手組が高いから、」とか

「勝負できそうだから」とか、そういう単純な理由で牌を組むのであれば

それは、4人で打つ必要のない麻雀だ。

そこには、自分が自分の手牌をどうしたい、こうしたい、という

自分本位な考えしか存在していない。

現在の状況を客観的に読み取ること。

それに合わせて、たくさんの選択肢を持ち、最善手を打つこと。

それが、麻雀の最大の魅力である。

これは、人生と同じだと私は思う。

自分のことしかみえない狭量な価値観では、だめだ。

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数日考えていた。

私は、自分の許せないと考える麻雀について、看過できない。

看過できないけれど、そうすることで、他の人に迷惑をかけていないか?

ということをもう一度考え直さなければならない。

「どんな人間とも大切につきあいなさい。」

この言葉を、いただき感銘を受ける。

例えば私が、身勝手な思いから「粗末に接した人間」が、

めぐり巡って「私の周囲の人間を粗末にする」かも知れないということ。

私が大切にすることがかなわない人間が、

私の大切な人間を粗末に扱う可能性がある、ということ。

例えば、麻雀を大切にしない人間をぞんざいに扱えば、その人は

麻雀を大切にする私の周囲の人間をぞんざいに扱う、といった具合。

「ここまでは許すけれど、この先は許さない」、という考えが、

結局何も許していない、ということと同じように

「ここまでは大切にできるけれど、この先は大切にできない」というのであれば

それは最初から何も大切になどできていないのだ。

必要なのは、もっともっと大きな捉え方だ。

自分の大切なもののために、大切にしたくないものを大切にする。

それは、それほどまでにして、大切なものが大切だ、という解にたどり着けるのではないか?

看過できないものも、粉砕せず攻撃せず、受け入れる力。

圧倒的な拒絶というのは、そういう努力を積み重ねたあとのハナシではないか?と考えるのだ。

一番理想な状態は、「大切にする」とかいう概念が必要ないくらい当たり前に「大切にできている」ということ。

麻雀を大切にしたいからこそ、清濁あわせて全て、大切にしなければならない。

きっと、そういうことなのだと思う。

だから、他人がどうあれ、自分は自分なりに常に精一杯でいるしかない。

他人がシャミセンぶっこいていても、自分はそのことで揺れない。

他人の粗相ごときに、乱されずその一局を真摯に見つめること。

他人に期待して甘えない。

どんなにひどい麻雀を打たれても、それに染まらないこと。

揺るぎない自分の麻雀を、もっともっと大きく成長させていきたい。

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気づきのススメ [哲学する麻雀]

私は、にぶい。

いつも、自分をちゃんと「にぶい」と認識しているから、

ことさら愚鈍な自分に自己嫌悪しなくてすむように気をつけている。

例えば、

「あのひとの麻雀は、いやしいですね。」

などど、他人の麻雀への評価を耳にしたとき、

「果たして自分はしっかりできているだろうか?」

と考えてみる。

これは、なにも麻雀だけのことではない。

常に、アンテナを張って、周囲の状況に自分を重ねて精査する習慣。

これを身につけることが、総じて「気づきの力」を向上させると信じている。

最近、「私は、自分の伝え方がよくない、」と反省をしている。

繰り返し、このブログでこぼしていたかもしれないが、

「私の伝え方が適切ではない」ために、

本人の気づく力を失わさせているのではないか?と。

気づいてもらいたい一心で、余計なことをしてしまっている、ということ。

「気づく人間は、自分で気づく。」

それに反して

「気づかない人間は、本当に何を言っても気づかない。気づいたふりをするだけだ。」

けれど、せっかくめぐり合ったのだから、何か力になれないだろうか?

とおもうことが、結局のところ余計なお世話なのだ。

「なぜ?気づかない?」

といくら気をもんだところで、

「気づく力がない人間」に、「気づけ」、というのは、酷なハナシだ。

気づく力は、意識しないと身につかない。

自分は未来永劫、「気づけない人間」なのだ、ということを真摯に受け止め

自分自身で、「強く改革をしてゆく意識を持つこと」これが、大切だ。

勝手に期待して、信じて残念に思う、なんていう猿芝居は、もう本当にばかばかしい。

だから、「気づいてもらえるはずがない」と私はそう思っていなければならない。

さらに、「気づいていないけれど、気づいたふりをする。」ということ、もよく踏まえて。

そして、私にとっては、信じられないそれらは、もはや私の責任ではない。

同じ言葉で、気づいてくださる人間がいる以上、もうこれ以上どうにもならない。

わたしの言葉が、たとえば2時間くらい考えた結果の精一杯であっても

相手にそれを受け止める力がなければ、それまでだ。

言葉に、力はない。

それを、受け止める人間の意識の問題なのだ。

だから、私は、まず相手の意識を慮る必要があったのだ。

平等に・・・という考えはこの場合やはり適切ではない。

つかさ会では、拙いながらも意見交換をできる人間が増えてきている。

その一方、自分が傷つくことを恐れて、他人に迷惑をかけることを恐れて

言葉を発することができない人間もいる。

後者が、自分の言葉を相手に伝えることにできる環境を作ること。

これが、最後に私のできることであって、

「他人の麻雀にくちだしすること。」が私の仕事ではない。

もう、おせっかいはやめにしよう。

だから、そのひとの麻雀の一打の理由は、私ではなく、そのひと本人に訊ねて欲しい。

できるだけ、失礼がないように訊ねて欲しい。

私は、「きづく力をまだ持たない人間」の心の機微までは、正しく理解できない。

これからは、若い世代の意識を中心に、

みなで意見交換をして、麻雀を深化させていって欲しい。

たとえ現在は気づくことができなくても、

未来、気づけるようになりたい、と望むのであれば、

それは、それで素晴しいことなのだから。

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