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ほんとうのきもちは、ひみつだよ [閑話休題]

 


 


諦観


仏教を強く学んだわけではないけれど、


いつも、思っている。


明らかにしたい、という気持ち。


麻雀だけではなく、麻雀をキッカケとして


本当のところを明らかにしたい。


:::::::::::::::


若者の麻雀のとなり。聞こえてくる。


一一⑦⑧678中中発発


一ワンが枯れているこんな状態から、


⑦⑧を払うという。


オーラス、ラス目の親番。


打点が必要な局面だから、発と中での


困難に見える字牌での和了を望む、というのだ。


発を引いて、中をツモる。というけいかく。


なるほど、場況を鑑みると、それはそれでアリだな、と思う。


中や発は拾いやすいだろう。


会話は続いている。


ソクラテス顔負けの対話だ。


いい面構えだ。


つづく言葉は、


「降着や失点は考えない」という。


現在、ラスだから、まあ、これ以上の降着はない、でしょう。


振り込んでも痛みがない。


でも、その考えに私は、とてつもない違和感を感じる。


恐れのない麻雀。


けれど、それは勇気とは違う。


「振り込んで降着することを恐れない理由」を考えると、


(この場合は、失点。)


やはりひとつの哀しい事柄に辿り着く。


「痛みがない」からだ。


「痛みがない」から、怖くない。


振り込んで、家がなくなったり、家族を失ったり


腕がなくなったりする訳ではない。


賭け麻雀から、ノーレート麻雀へ移行している昨今


かえせば、麻雀は「痛みを考えて」「痛みに備えて」打つゲームではなく、


純粋に自分の利益を追求するゲームになったのだ、と思う。


賭けないから、痛みがない、のでなくて


痛みなど必要がない、そのことが麻雀なのだと。


罰がなくても、めいめいの利益追求を戦わせる場なのだ、と。


なるほど、非常に合理的だ。


けれど、自分にとっての麻雀は違う。


確かにノーレートは楽しい。


誰も金銭的に傷つけることはないし、


不愉快な気持ちになることも少ない。


それに、ノーレートファイターのみなさんは、


(誤解をまねく表現だけれど)


どんなときでも、等しく同じ温度で麻雀に接することができる。


けれど、やはり、私はちがう、と思う。


わたしが違う、と思う。私の存在が違う、と思う。


そういうノーレートのなかにいて、自分の存在に違和感を覚える。


どこで、誰と打っていても、「自分は違う」と感じているのだ。


賭け麻雀をご存知ないみなさんは、賭け麻雀との比較などしない。


だけど、わたしは、いつも(オカネでなくても、)


打牌には等価交換の対価が伴うべきだと、そうおもってる。


けれど、自分がそういう温度になることは、ほとんどなく


自分への罰も存在しないまま、打牌を重ね


心のどこかが冷めていて、自分のニセモノ加減に嫌気が差すのだ。


自分にとってのめざすところは、何なのだろうか?


楽しい麻雀、共有する麻雀。


それも、悪くはない、と思う。


そう思うからこそ、重ねてきた時間だって存在するのだけれど。


ここのところ、ずっとひとりでたくさんのひとと麻雀を打ってきて


やはり、「厳しい麻雀」が打ちたいな、と思う。


麻雀にはいろいろな楽しさがあって、よくばりに


全てをほおばりたくなるけれど、


やはり、自分の本当の気持ちでの「麻雀」は


呼吸の出来ないくらいの深度でなければならないのだ、と思う。


そして、そういう深度につきあってくださる同卓者は稀有なのだ、と


いうことはよくわかっているのだ。


w709.jpg


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