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フリー対局にて [地獄麻雀]

とあるノーレートフリーで、数回卓入りをする。


ちゃんと打っているつもりでも


どうしても大味になる。


自分にとってのフリー麻雀は、その自分!の歴史から


勝てばいい、麻雀になりやすい。


麻雀は中身だ、といいながら、


気がつくと猛攻撃の麻雀になっている


そういう自分を俯瞰して、睥睨する。


 「やりすぎ」なのだ。


同卓者のなかにキズをみつけ、


そこに対して、牌の色と形をよせてゆく。


どんな牌でもでてくる、


という場の状況に対して、無意識のうちに


最善をつくしている。


当たり前のように、見逃し


当たり前ように差し込み、やりたい放題だ。


東1局


北とペン⑦を仕掛けている親番の私。


混一色以外にはみえない幼稚な仕掛け。


南家がリーチ。


北家が変わらず、ぶんぶん


どんな牌でも切り出してくる。


場に一枚も見えていない東を打たれて


①④④9東東中


ポン


①④④中


ここに、リーチを、打っている下家が


打④。


これをポン。


①単騎をツモる。


やりすぎだ。


けれど、ダブル東が打たれ


④が打たれて、12000のテンパイがとれて


しかも、まだ東一局だ、ということを


考えるならば、④を仕掛けないことも


また、緩手と言えなくもない。


けれど、理屈では許されても


自分はこういう麻雀を打つべきではない。


そうまでして、勝ちたいか?


と思う。


リスクのない、簡単な麻雀。


そこには、喜びも感動もない。


卓操作が上手くいけば、


勝ちやすくもなる。


けれど、そこには、その跡には、ペンペン草ひとつ


生えない荒野が広がるばかりだ。


麻雀を、楽しみにきている同卓者を


ただ、チカラでねじ伏せる雀ゴロのような麻雀。


同卓者のステージと思惟を、


自分が勝つため、その為に利用する麻雀。


誰かの麻雀を慈しむ優しさを、持たない麻雀。


そういうことが嫌で、自分は師匠のところて


麻雀を学んだのでは、なかったのか?


 「あんた、そんな麻雀打って楽しいかね?」


師匠の声が聞こえる。


麻雀を自己顕示欲の為に使わない。


卓を支配する、なんて、思い上がりもよいところだ。


そこにあるものを、蹂躙しては行けない。


麻雀は4人で打っている。


どんなステージの麻雀であっても、


対局者を考えることができないのであれば、 


打たないほうがいい。


東2局。


トビありのルールということもあり


「どうせ、下家が振り込んで終わりだ。」


と、下家に仕掛けさせての終局。


こういう安直な選択肢ではなく


下家を生かして、下家の点棒を守りながら


オーラスまでの対局を紡ぎあげる努力。 


それが、私の目指すべき麻雀だ。 


師匠なら、間違いなくそうしている。 


お金が、かかっていようが、


かかっていなかろうが、


師匠なら、同卓者を殺しはしない。


ともに、オーラスを目指すだろう。 


どんなにステージが違っていたとしても。 


はじめて、フリーで師匠と同卓した時、 


師匠はそういう問いかけるような麻雀を打って


くださった。だからこそ、


今日の私がある。


意味のない成績を持って、星空を仰ぎ


とてつもなく、虚しい気持ちに包まれる。


自分さえ良ければいい、勝てばよい、の


麻雀を、打ってしまうことは、とても、哀しいことだ。


途中でそのことに気づくこともできず、


重なる成績を面白がっていた。


質量としての重さではなく、形而上の概念としての重さ。


何も麻雀に限ったことではない。


価値を作ることができるか、どうかは、


結局のところ、その人の胸の内次第なのだから。


 


 


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